気持ちが疲れてくるとたまに思ってしまうことが大きく二つある。
「外見の整った人が羨ましい」ということと、「文化的資本のある家庭で育った人が羨ましい」ということだ。
大雑把にまとめると、「私が努力して辿り着けるかどうかという場所にほぼ最初からいる(ように見える)人が羨ましくてしょうがない」というところか。
改めて自分が潜在的に渇望していることを文字にすると恥ずかしいし、その内容の浅さに落ち込むが、この二つを思い浮かべてしまうことが気持ちの疲れ具合を表す指標になっている。書いていたらとても長い文章になってしまったので、今回は一つ目の雑念についてのみ触れる。
自分の外見にコンプレックスを感じ始めたのは中学生の頃だ。ふと、「可愛い子は可愛い子同士でグループになっている」ということに気づいた。丁度この頃からニコラやセブンティーンなどのティーン向けファッション雑誌を読むようになり、それが「“可愛い”女の子の条件は何か」ということを強く意識した原体験になったのだと思う。雑誌モデルの子たちは皆、目がぱっちりと大きく、すらっと華奢な体をしていた。それに気づいてからというもの、街中でも家でテレビを見ていても、美しいとされる女性はどんな外見なのか、そうでないとされる女性はどんな扱いをされているのかにも気づき始めた。また、それは女性だけでなく男性の外見に対しても似たような視線が注がれていることに気づくのに時間はかからなかった。
恐らく人生の中で最も見た目へのコンプレックスを極めたのは高校生の頃だ。高校一年の時に恋人ができたが、その恋人は私と付き合っているにも関わらずダンス部の女の子たち(容姿の整った女の子が多かった)や同じ部活の先輩の連絡先を聞いて回っていた。今思えば当時の恋人が100%悪いだけなのだが、恋人が言い寄った女の子たちが一様に“可愛かった”ことで私は自信を失ってしまった。私は当時十分細かったのにもっと痩せなきゃと思い込んでいたし、二重まぶたにする方法をあれこれ試したり、親に二重整形したいとこぼしたこともある。恋人との関係だけでなく、容姿の優れた人が持て囃されている様子を見ると落ち込んでしまうことも多かった。容姿の違いで他人の態度が変わってしまうということに強い悲しみを覚えた。
しかし、大学に入って以降は自然とコンプレックスに対する意識が徐々に薄れていった。色々な理由が複合的に絡んでいると思うけど、その頃から多くのメディアに触れるようになったのは大きかった。映画を沢山観るようになり、特に社会的マイノリティについて取り上げた作品に対して自分が強い共感を覚えることに気づいた。自分が人として欠陥を抱えているように感じる体験は、その内容に違いはあるにせよあまりにも身に覚えがあったからだ。
その頃から世界的にもセクシャルマイノリティや有色人種を筆頭とした権利を主張する運動がどんどん広がり、その波は女性の権利運動にも繋がっていった。ルッキズムやボディポジティブなどの概念と出会い、それまでの人生でこびりついた呪いがポロポロと剥がれていった。
それでも10代の頃の思考の片鱗がなかなか消えないのは、やはり今でも当時と変わらない状況にぶち当たることが少なくないからかもしれない。インスタグラムに沢山流れてくる女性たちや街にあふれる広告、ふと見かけた他人の態度を見ていると、そこにいるだけで人の目を引いてしまうような美しさを持っている人のことを心底羨ましく感じてしまうときも正直ある。それでも私が以前と違って深く落ち込まなくなったのは、誰かが作り上げた美しさの基準に疑問を投げかけ、声を上げてくれた人たちがいたことで違和感に気づけたからだ。トラウマは簡単に消えてはくれないけど、自分が自分の味方になれた今はもう自身を必要以上に責めることはなくなった。他人を羨ましく思う自分も無理には殺さず、共存しながら、自分を愛でられる気持ちがちょっとずつ育つようにしていくだけだ。
今回の一本
Queer Eye: We're In Japan! | Official Trailer | Netflix
「クィア・アイ」はネットフリックスでも大好きなシリーズだけど、日本で撮影されたシーズンがダントツで気に入っている。ドキュメンタリー風だけど演出されていると思うのでたまに見ていて照れてしまうような箇所もあるのだけど、様々な人生の背景を持った人が自身の悩みと正面から向き合っていく過程は息を呑んでしまう。特に日本を舞台にしている今シーズンは日本の社会や文化的な背景も重なってより身近に感じるせいでどっぷり感情移入してしまう。ファブファイブのメンバーはメイクオーバーする前から「あなたは美しい」と断言する。このシリーズの素晴らしさってもうそれが全てだよねと思う。