学生のころとは違い、超絶技巧系の作品を弾く機会は格段に少なくなっている。“そういう部類の曲”意外ではほとんど使わないテクニックがいくつかあるのだが、最近練習しているハイフェッツ編曲のガーシュウィンの小品には、まあ、かなりマイルドな方ではあるが、それでも部分的に「ああ、この感じ久々だな」という苦しい箇所がある(※ハイフェッツは20世紀を代表する大ヴァイオリニストのひとり。芸術性はさることながら、技巧派の印象が強く、彼がヴァイオリンのために編曲した作品にも、やはり何かしらの特殊技巧が盛り込まれていることが多い)。
その作品には昔から大変苦手であった「フィンガードオクターブ」というテクニックがどうしても必要な部分があり、ひさしぶりに真面目に取り組んでいる(ふつう連続するオクターブは、人差し指と小指で隣り合った弦を同時に押さえ、その形のまま弦の上を滑らせるが、フィンガードオクターブは人差し指と薬指、次のオクターブは中指と小指、といった具合に、通常のオクターブよりも指を広く開き、カニ歩きのような動きをするというものである)。慣れない身体のストレッチと同じで、指が裂けそうだし、少なくとも私にとってはとにかくキツイのだが、そういったある種特殊な、もしくはキツイ動きは、根本的な問題を気づかせてくれたりもする。今回は「なんか、左の小指、おかしくない?」というやつである。
身体の動きや使い方などは自分の意識と直結している。どんな意識が原因でおかしなことになっているのかを探り、気づけた時にはとても嬉しくなるし、何十年も同じような練習を飽きずに続けていられるのは、こうした体験が日々味わえるからかもしれない。
指を使う楽器奏者にとっては、小指とは厄介な存在である。小指は他の指より細く短いためどうしても弱いし、支えとなる親指からも遠い。今回気づかされたことは、「小指は頼りないからしっかり押さえたい」、「指を外す時に音がはっきりしないのが嫌だ」などという思いから、他の指とは違う方向に向かって、指の腹部分で弦を押さえる、という癖が染み付いていたということである。そしてその背景には、「少しでも楽をしたい」という怠け心もあり、本来はできなければ地道に練習をしてそのための筋肉を鍛えることが必要であるはずなのに、そこをすっとばし、「鍛えず」して「インスタント」に、“出来た気” になれるやり方を採用していたのである。更に悪い事には、おそらく、長い時間かけて出来上がった癖であるから、間違った状態に合わせて身体もつくられてしまっており、けれどもやはり正常ではないのでいつまで経っても身体の安定感が得られず不安が消えない。つまり、精神→身体→精神・・という無限ループに入ってしまっているのだ。
この癖は直さなくても、普通の楽曲レベルならば対応できるし、今から直すのはものすごく大変なので、嫌だなあ、と、お得意の怠け心からついつい思ってしまう。それでもこの問題に手をつければ、音程の精度や音質のムラなど、いくつかの基本的な問題が解決、もしくは改善されるのは明白である。正直、フィンガードオクターブをはじめ、超絶技巧と呼ばれるテクニックは普段ほとんど使わないし、うまくできなくてもそんなに困る事もないのでどちらでもよいのだが(もちろんできるに越したことはないし、難なくできるようになりたいというのは大前提ではある)、こうした根本的な技術の問題であるのならば、さすがに放置はできない。
我が師匠、故・ニコラス・チュマチェンコ氏のレッスン室の壁には、フリッツ・クライスラー(1875~1962、ヴァイオリニスト、作曲家)の格言が貼ってあった。細かく憶えてはいないが、たしか「すべてのテクニカルな問題は、頭脳(brain)によるものである」というような内容だった気がする。
精神は身体を作るが、逆もまた然り、身体も精神を作る。クライスラーが言うように、もともとは精神(頭脳)から始まったことではあるが、まずは正しく鍛えること、今回は完全に身体からのアプローチになりそうだ。