家族や身の回りの環境など、生まれながらにして持ち合わせた物事が興味の対象、またはコミュニケーションのきっかけや進路を選ぶきっかけになっているという人の話を聞いていると羨ましくなることがある。私自身がそういう環境になかったからだ。
両親はいわゆるスポーツマンで、反対に私自身はお絵描きや読書など部屋の中で出来ることが好きで、体を動かすことは寧ろ苦手だった。小学生の頃には既に絵やデザインに関係する仕事に就きたいと思っていたが、これは身近な誰かに影響された訳ではなく、完全に自分の意志からだった。両親ともスポーツマンであることを考えると、自分が突然変異体のように思えてくる。部屋で絵を描いていると外で遊ぶよう注意されたり、美術部に入りたいのに運動部に入るよう矯正されたり、子供の頃はかなり窮屈な思いをした。もちろん両親としては子供のうちに体力を付けさせる目的があったと思うので全面的に否定は出来ないのだが、その分の反動は凄まじく、高校時代のほとんどは美術大学の受験対策に時間を割いていた。
東京の美術大学に進学した時、まず最初にカルチャーショックを受けたのが地元では見かけないような雰囲気を身に纏う人たちが沢山いることだった。その人の外観からその人の好きな「世界」が伝わってくる。その「世界」は私が知らない「世界」なのだと分かることそれ自体に衝撃を受けた。そんな人たちは私の知らない色んなことを教えてくれた。でも私はその知らない世界に辿り着く方法も分からなくて、何とかして追いつきたくて、色々なメディアを漁るようになった。そうして気づいたのは、そもそも育った環境の違いによって知識やセンスには差が出てしまうということだった。
美術大学には、両親が美術関係の仕事をしていたり、そうでなくても「文化的資本」に恵まれている学生が複数いた。私はそのことが羨ましくてたまらなくなるようになった。それまで住んでいた、東京まで一時間程度の実家周辺は田舎そのもので、スポーツマンの両親とは違う趣味嗜好の中で生きていた私が触れられる「文化」は隣の市のイオンと、自転車で行ける距離にあったTSUTAYAくらいだった。インターネットは既にあったのでその気になれば色々と調べることは出来たはずだが、調べ方も分からず、ロールモデルだと思える大人も周りにいなかったので美大受験対策をすることで手一杯だった。もちろん、そんな経験が全てマイナスに働くということはなく、プラスになっている部分もあるだろう。それでも、もし自分の性分と周りの環境がもっと合致していたなら…と妄想してしまうことがあるし、私が必死になって辿り着いた「センス」を既に子供時代に獲得している人たちを羨ましく思ってしまう。実家が東京だったりその近郊で暮らしてきた友人に対しても、似たような感情が湧く。子供の頃から自分の周りに大量の選択肢があるのはどんな感覚なのか。色んな規模の美術館や映画館やライブハウスなどの文化施設、個性豊かな人々が集まっている環境にもっと若い頃から身を置いてみたかったと思うが、当の本人たちに訊ねてみると「地元」がある感覚を知ってみたいと言うので、やはり人は無い物ねだりになるのかもしれない。
つい「羨ましい」と感じてしまうことを書いてみると、人を羨むということはある意味、加害性を秘めているなとも思う。人をある一面だけで捉え、一方的に羨んだり憧れたりしてしまうのは思慮が浅すぎないかと。そんな自分の浅ましさをしっかり自覚しておきたいけど、その反面、憧れは私を大きく動かす原動力になっていることも事実だ。