北欧での旅行の記憶はポジティブな印象が大半を占めているものの、その中にも苦い体験があった。これは日本でも起こり得ることなのだが、その出来事について綴ってみる。
日本には及ばずとも、北欧の国々の治安は世界的に見て概ね安定している。ただし、地区や時間帯によっては警戒が必要な場合があり、実際に一人で夜中には歩きたくないと感じる場所もあった。それでも滞在中は危険を感じることなく穏やかに過ごした。私が帰国した後、訪れていた街で銃の発砲事件があったと聞いて肝が冷えたが、ギャング同士の対立が要因だったらしく一般人は巻き込まれなかったそうだ。
そんな中で滞在中に警戒心が湧いたのは、駅の近くや広場など人が沢山集まる場所を歩いている時だった。移動が多かったこともあって何度もそういった場所を行き来したのだが、私と一緒に歩いているパートナーは知らない人に頻繁に声をかけられていた。パートナーの風貌から人の良さがにじみ出ていたのだろうか。
声をかけてきた人たちの中でも印象的だったのは、ある男女のペアだった。男性の方が英語で話しかけて来る。私は英語が断片的にしか分からないのでパートナーが終始コミュニケーションを取っていた。その男性が言うには、「一緒にいる女性はウクライナからの難民で、一時的にドイツにいる彼女の親類の移動費として現金を恵んであげてほしい」とのことだった。ところが、私たちはその時まさに日本円をスウェーデンクローナに両替するため換金場に向かう道中だった。単純に現金が手元になかったので断るしか術がない。しかし、そう説明すると疑念の籠った目線を向けられた。男性は「Swish(スウェーデン版PayPay)でも良い」と交渉を持ちかけてきた。長年日本に住んでいるパートナーも私もSwishは持っていない。それに、男性の言っていることがどこまで本当なのか確証を得られなかったこともあり、パートナーは丁重に断った。すると男性は「難民に対して手助けをしないなんて信じられない」と言わんばかりの表情で私たちを非難するように交互に見つめていた。この一連のやり取りがなかなか頭から離れず、その日は精神的に疲れてしまった。気持ちの防御体制が出来ていないところに、予期せぬタイミングで他人から露骨なマイナスの感情を浴びてしまったせいだ。
ロシアによるウクライナ侵攻が始まったのは旅行の2ヶ月ほど前だった。私は日本のウクライナ大使館が公表した口座に募金をした。街中で募金を呼びかける人々を見かけることもあるが、募金を謳って利己的な資金集めをしている団体もあると聞く。そんな理由もあって、お金の行方がちゃんと分かる振り込み先を自分で調べるようにしていた。もちろん真摯に募金を呼びかけている人もいるはずで、その行為自体への敬意は持っているものの、外での募金はきっぱりと止めた。今回声をかけてきた二人組の要求に対しても同じ理由で、様々な可能性を鑑みて断った。それでも、何故か自分が悪いことをしたかのような気持ちが消えず、気持ちを切り替えるのに時間がかかった。スウェーデンではウクライナからの難民を多く受け入れており、スウェーデンのウクライナ大使館を通じて援助があるはずなので、彼らの言っていたような困りごとは発生しにくいのではないかとパートナーは分析していた。もし難民だと嘘をついてお金を騙し取ろうとしていたのなら、戦争の被害に便乗する火事場泥棒のような行為に他ならない。それでも、その二人組の言っていたことが事実で本当に困っていたのなら…そもそも、嘘だったとしても生活に困っていることは本当かもしれない、そんな考えが捨てきれなかった。自分が望まないことや納得できないことを断るのは当然の権利であるはずなのに、相手の残念そうな態度を見るといちいち申し訳なさを感じてしまう。彼らとはそれきりだったが、よく使う通りで起きたことだったので、滞在中にまた遭遇するのではないかと心配だった。
前談の男女二人組とは複雑な思いを抱えつつ別れ、言葉通り何歩か歩いて間もない換金場の前で、また別の人が声をかけてきた。「IDカードが割れて使えなくなり換金できなくなった。代わりに、このユーロの現金をスウェーデンクローナに両替してほしい」と要求してきたのは背が高くやたらと押しの強い男性。日本円で大体10万円の両替を私たちに依頼してきた。私のパートナーは当初断っていたが、男性は折れることなく要求を繰り返しなかなか引かない。どれだけ自分が困っているかを身振り手振りや表情を交えて、少し大げさとも感じるほどに訴えてくる。あまりにも男性の諦めが悪いので、私のパートナーは「そのお金が何に使われるか分からないから」と男性に伝えた上で、「一万円(相当)のみであれば両替しても良い」と譲歩し、相手はそれに応じた。IDカードの壊れ方もどうも怪しく、丁度ICチップの部分をくり抜いたかのような不自然な形だったので警戒してしまったが、もし嘘なら一体どんな目的があったのだろう。本当に困っていたのかもしれないが確かめる術はない。また別の日には、物乞いの男性が強い態度で話しかけてきた。パートナーによると彼は何年も同じ場所にいる人で、パートナーの家族や友人は現地周辺に住んでいるため彼の存在は認識しているらしい。高い確率で声をかけられるので、その場所を通らなければいけない時はやはり緊張するそうだ。

シリア戦争を始め、近年の戦争の影響でスウェーデンに難民の波が押し寄せた。スウェーデンでは難民を多く受け入れているが、その後の生活のサポート体制が整っていないことが近年問題視されている。生活苦から物乞いをしたり、盗難などの犯罪に及んでしまうなどの事件も増えている。選挙では必ず難民の受け入れが争点になるそうだ。
EUの加盟国間の移動には基本的にパスポートが必要ない。しかし、急激にスウェーデンへ流入する難民の数をコントロールするため、南に位置する国・デンマークとの国境近くの駅では数分間電車が止まり、警察が乗客のパスポートやIDカードを確認して回っている。この取り締まりはEU内で批判されているが、逆にスウェーデン国内では難民の受け入れに反対する声も目立ってきているらしく、大きな摩擦が生じている。島国であり、難民もほとんど受け入れていない日本ではこれらのことを意識する機会はほとんどない。それは、直視すべき課題をスウェーデンを始め他国に委ねているということの裏返しなのかもしれない。
今回私たちに声をかけてきた人たちの背景について私は何も知らない。ただ、このようなことがきっかけで生活に困っている可能性もないとは言えない。世界でもトップクラスに福祉政策に注力している北欧は、そのイメージを裏切ることがないのと同時に、日本とはまた違う事情の課題を抱えている。美しい街を歩き回って旅行者特有の浮き足だった気持ちが一気に地面に引き戻されたが、その国で生活する人のような、良い意味で冷静な目線が自分の中に生まれた出来事だった。
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