困っていそうな人を外で見かけた時、人助けをする余裕があれば積極的に声をかけるようにしている。大抵「大丈夫です」と言われることが多いし、逆に自分が声をかけられる立場だった時もやはり「大丈夫です」と言うことが大半だ。ただ、どっちの立場の時であれ、自分は相手との間に薄い壁を設けて、壁の向こうから声を投げているようなところがあるな…と反省させられる出来事があった。
天気の良い週末の昼間、散歩がてら住宅街を歩いていた。すると少し先の道端に座り込んでいる人影が見えた。小学校高学年くらいの少年で、彼の乗れるサイズの自転車に向かって何か夢中で作業をしている。その座り込んでいる場所が彼の家の前なのかなと思ったが、家側ではなく道路側に座り込んでいる様子から違和感を感じた。丁度自分の歩いていく方向だったので近づいていくと、後輪の中心の辺りにパスケースの紐がきつく絡まってしまっているようだ。彼はその紐を解こうと必死なのだが、その道は住宅街の中でも名前がついているメイン通りで、そこそこの交通量がある。彼は道路の白線の上に座り込む形で作業していたので危険を感じ、声をかけることにした。
「どうしたの?」と聞くと、彼の直そうとしている自転車は彼の友達から借りたもので、まさにその友達が父親を呼びに行った所だと教えてくれた。私も何か手伝えないかと思い、まず白線の内側まで下がるよう提案して一緒に自転車を移動した。程なくして彼の友達がどこからともなく駆け寄ってきた。彼の父親は通話中で呼んでこられなかったと言うので、しばらく自転車から紐を取り除けないか試行錯誤したが、一向に解ける様子はない。そうこうしている間にも彼の友人たちがどこからともなくどんどん集まってきたのが不思議だった。何かのクラブか習い事の帰りだったのだろうか。
もう一つ不思議だったのは、その少年が頑なに自転車を直せると信じきっているように見えることだった。あまりにも紐がきつく巻き付いていたので、知り合いの大人を呼ぶことや自転車屋さんに行くこと、自転車を彼の家までとりあえず運ぶことなどを提案したのだが、彼は作業を止めず「自分で直せるはずだ」というようなことを呟いている。集まってきた彼の友人たちも、一向に直る気配のない自転車を見て彼に諦めるよう説得したが、彼は「自分で直せるのに」と反論し、意見を聞く余裕がないように見えた。
10分程経って、最終的に自転車の持ち主である彼の友人が自転車を軽々持ち上げ、恐らく自宅と思われる方へと歩いて行った。他の友人たちもぞろぞろとそれに着いて行く。当の自転車を直していた少年だけが、その場に座り込んで友人たちが背中を向けて歩いて行く様子をただ見つめていた。道路に座り込んでいる小学生を置いてその場を離れるのはかなり気が引けたが、声をかけても私の方を一切見ず、何だったら早くその場から去って欲しいという気迫を感じてしまい、何となくその場に居られなくなった。後ろ髪を引かれながら私は歩き出したが、もしかしたら自分の言い方や振る舞いが良くなかったのではないかとその後もしばらく考え込んでしまった。単純に、彼は友人から借りた自転車を壊してしまったのではないかという罪悪感で周りに構う余裕がなかっただけかもしれない。それでも無力感が残ったのは、自分が終始彼に対して壁の向こうからしか言葉を投げかけられていなかったと後から気づいたからだった。
今回のことで、解決策を次々と提案することが最善手ではない場面もあると反省した。相手が望んでいることをこちらに伝えやすくなるよう話を運ぶことや、目前の問題の解決に直接繋がらないとしても、その人の身に寄り添うような言葉を選ぶことがその人の支えになることもあるかもしれない。とはいえ、知らない人にいきなりそこまでのコミュニケーションをとれるかと言えば、難しいことも多いだろう。もちろん相手には距離感を選ぶ権利があり、一歩間違えば歩み寄りは相手のプライベートゾーンに踏み込む行為になってしまう恐れもある。「相手の立場になって考える」なんてどうにも限界があるのだ。ただ、困っているように見える人の本当の困りごとが、実は別の所にあるかもしれないと想像の余地を設けておくことだったら、少しは出来るような気がした。逆に今度自分がそうされる側になったら、その時は「大丈夫です」で終わらせずに何か気の利いた言葉を返したい。もっとも、そちらの立場の方が壁を作らずに人と接することは難しいのかもしれないけれど。今回私には何も出来なかったけど、あの小学生の彼の自転車が無事に直ったことを願う。
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