今回は他のことを書くつもりだったが、生活や思考の割合を大きく占めていた出来事があったばかりということもあり、それを書いていくことにした。
2022年12月、父方の祖父と母方の祖母を亡くした。2人とも最期はほとんど寝たきりになっていたが、亡くなる少し前に会えた時は細やかながらコミュニケーションを取ることが出来た。年末ということもあり今年を振り返って考える機会が多い中、年始の頃は2人とも自力で歩けていた姿を思い出す。普段は忘れてしまうが、こうして振り返ると一年という時間が人に与え得る変化は大きい。
身近な人を亡くす体験についてはこれが初めてではないが、幸い私の周りでは滅多にないことだ。亡くなった祖父や祖母の額に恐る恐る触れると人体とは思えないほどひんやりとしていて、寒空に晒されている石の様だった。内臓の働きが完全に止まった人体はそうでない身体とは想像よりも大きくかけ離れており、内心でその衝撃を受け止めた。
今回の祖父母の死去によって、父方、母方全ての祖父母を失った。自分が生まれるずっと前から存在していた家族がいなくなると、所謂「心に穴が空いたような」という言い回しが相応しい心境になった。祖父母と一番濃く関わっていたのは幼少期だったが、その頃の自分を知っている人がこの世界からいなくなったことで、自分の幼少期ごと消えてしまったような感覚になった。それでも葬儀で久しぶりに再会する親類と集まって話してみると、また違った考えに至った。
親類は皆一人一人、覚えている記憶が少しずつ違っていたりする。自分もまた他の人が忘れていたことを覚えていたりする。そうして断片的な記憶が相互に空白部分に補填されると、久しく思い出していなかったことが次々と蘇ってきた。祖母の家で見ていた変なアニメのこと。優しい祖母が急に真面目に語り出したこと。祖父と観覧車に乗ったこと。子どもならではの気まずい質問をしてしまったこと。どんなにずうっと昔のことだったとしても、もし思い出せなかったとしても、そんな時間があったということそのものは消えることがない。良かれ悪かれ、どんなに小さな出来事もなかったことにはならず、仕舞ったきりになった忘れ物みたいに本当は頭のどこかには常にあるのだろう。思い出せないことは忘れたことと同じだ、と言われてしまえば、あまり強くは言い返せないけれど。
葬儀を終え、仕事納めを迎え、来年の頭に行こうと思っていた美容室の予約をふと思い立ち年内にずらした。髪を切り美容室を出ると、11〜12月の大変だった時間の中で溜まっていた何かがすっぱり精算されたような心持ちになった。髪の長さが変わった、それだけのことで気分が少し上向きになることが何だか可笑しかった。とはいえ、まだまだ自分の中に重い何かが鎮座しているのも感じ取れる。来年初頭の数ヶ月間は、自分や周囲の人間をいつも以上に労っていくことを抱負としたい。