8月12日
いよいよ再びドイツに旅立つ日。毎年一ヶ月の夏休みに日本に帰国し、ドイツに戻る時はいつも感傷的になり、悲しくなったりしていた。しかも今回は一年にわたる長い日本滞在。どんな感情の波に襲われてしまうのかと心配だったが、直前まで予定を詰め込んでいたのと、慣れない南回りで帰る緊張とで、意外と落ち着いていられた。
飛行機は夜の便。綿のように疲れているのに眠れないので、「オズの魔法使い」「雨に唄えば」を観る。セットや俳優の演技などが古めかしいけれど、こうして今でも楽しめるのは、作品の完成度の高さなのかなと思う。『over the rainbow』のメロディーは、なぜあんなにシンプルなのにこんなに心を打つのだろう。


8月13日
朝4時に乗り換え地のドバイに到着。さすが世界のハブ空港、この時間にすでに免税店、ブランドショップなどが開いていて驚く。たまたま同じ便を予約していた、オーストラリアに帰国していた同僚と再会。結構連絡を取っていたので一年ぶりな気が全くしないが、とても嬉しい。
ドイツに到着すると、早速目的地までの電車が軒並みキャンセル。想定範囲内だけど、ほぼ24時間に渡る長旅の後にこれはうんざり。一時間遅れの電車になんとか乗り込んだものの、電車は満員で立ちっぱなし。みなイライラしていて言い争いになったりしているが、それをいなすオトナが必ずいるのがドイツという感じ。
また今回は、両手に20キロ超のスーツケース、背中にヴァイオリン、それに大きなボストンバッグという、まるで夜逃げするかのような大荷物だったので、空港や駅でいろんな人が手を貸してくれたのは助かった。
宿について泥のように眠る。気づいたら12時間も寝ていた!


8月14日
今日は引越し。ドイツだと、よほど大掛かりな引越しでない限り引越し業者には頼まない。その代わり知り合いに頼んだり、インターネットのサイトで学生バイトなどを募ったりする。今回は、オーケストラの裏方で働いているPとその友達が引き受けてくれた。エレベーターのない建物がほとんどなので、ドイツの引越しはまさに力仕事。しかしドイツ人男性の筋力は同じ人間と思えないほど強く、私がようやく一個持ち上げられるかどうかの段ボールを二段重ねにして軽々と運んでいく。
予期せぬことがいろいろ起こり、予定より長くて大変な行程になってしまったが、文句も言わず黙々と作業してくれて、気持ちの良い二人だった。


8月15日
久しぶりに会う友達とご飯。生真面目であると同時に大胆な発想を持っている彼女には良い刺激を受ける。


8月16日
今後の演奏会のプログラムの準備。相次ぐ引越しや移動で、まとまった時間練習したのはかなり久しぶり。十分に練習できると心が落ち着く。


8月17日
初仕事の日。懐かしい顔ぶれに会えて嬉しい。一年もいなかった気がしない。
リハーサルが開始して、一音目が鳴った瞬間、響きの大きさに驚く。ドイツのオーケストラのスタンダードを忘れていたのかもしれない。


8月18日
みっちりリハーサルが続き、家の事も落ち着かないので疲労困憊。分かってはいるけれど、インターネットの手続きや、家電の配達等々、こちらの希望どおりに進むことはまずない。便利な日本の暮らしに慣れて、そんなことを忘れかけていた。


8月19日
夜に野外コンサート。幸い雨は降らず、途中風が吹き始めて楽譜が飛んでいきそうだった以外は、お客さんも盛り上がっていて良い演奏会だった。ドイツ人は、休暇でスペインに行くのも好きだけど、スペインの音楽も好きなようだ。


8月21日
野外コンサート2回目。ピアソラの「四季」ガーシュウィンの「サマータイム」などで今回はロシア人コンサートマスターの独奏があったのだけれど、彼のロシアンスタイルの少し粗めで哀愁に満ちた音がどの曲にもすごく合っていて聴き惚れてしまった。


8月22日
これから仕事を2年間休んでアメリカに帰る同僚の送別会。外国生活をする人にとって、40歳前後は今後そのままこの生活を続けるのか、それとも故郷に戻るのかを決める一つの分岐点なのかもしれないと、自らを顧みて思う。
彼と弾いたベートーヴェンのカルテット「ラズモフスキー」は、本当に楽しくて思い出深い体験だった。また今後一緒に演奏できる日がいつか来るのだろうか。


8月23日
明日からリハーサルが始まるリヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」を練習。初めて弾く曲で、意外と手に入りにくい音型が多くて苦戦する。


8月24日
リハーサルのホールがオーケストラでぎっしり。こんな大編成の曲を演奏するのは、コロナ禍が始まって以来初めて。大編成で大音量なので、音の海の中にいるよう。こういう曲だと皆(私も含めて)俄然やる気が出るのか、弦の響きも普段より厚い。


8月25日
リヒャルト・シュトラウスが、若い頃のアルプス登山の体験から着想を得て作曲した「アルペン交響曲」は、夜の場面から始まって、牧場の場面、嵐の場面など、オペラのように場面ごとにタイトルがついていて面白い。音楽のスケールの大きさとタイトルのシンプルさが、たまにしっくりこない。


8月27日
今回の演奏会プログラムのもう一つの曲、プロコフィエフの協奏的交響曲のソロを弾くチェリストが今日からリハーサルに参加。売れっ子ドイツ人チェリストのダニエル・ミュラー・ショット。朝から完璧な演奏。なのに、夕方からのGPではさらに別人のように素晴らしい演奏をしていた。


8月28日
疲れて昼頃に起床。
一回目のシンフォニーコンサートだったが、通しのリハーサルが多かったのであまり初めての本番な気がしない。チェリストはさらにパワーアップしており、弾きながら吸い込まれてしまいそうな、繊細で情熱的な、感動的な演奏だった。アンコールは「鳥の歌」(有名なカタロニア民謡)。これも素晴らしかったが、聴きにきていたカタロニア地方出身のスペイン人の友人が、「歌のリズムを尊重しないで自由に弾きすぎているのが残念だった」と言っていて、そんなものかなと思う。日本民謡を自由なリズムで弾かれて感じる違和感のようなものだろうか。


8月29日
二回目のシンフォニーコンサート。ホールに向かう電車がいつになく混んでいる。ドイツ鉄道が期間限定で売り出している、全国どこでも一ヶ月9ユーロで行けるチケット(ただし普通電車のみ)の影響で、電車の利用客が大幅に増えているらしい。ドイツの電車の運賃は、特に近距離の移動に関しては、正規料金だと日本より高い。その代わりさまざまな割引チケットがあるので、それをいかにうまく利用するのが交通費を安く抑えるコツだ。
今日の演奏は昨日より全体的にまとまっていて、お客さんの拍手も盛り上がっていたけれど、最前列正面に座っていた男性がカーテンコールの時に大あくびしているのが見えた。テンションの高い曲は弾く方は楽しくて良いけれど、聴く人は疲れてしまうこともあるかもしれない。


8月31日
今日で8月も終わり。ドイツに来てまだ一ヶ月も経っていないのに、日本での生活が遥か昔のことのように感じられる。場所の移動がもたらす心境の変化は思いのほか大きい。
夏にオーロラメンバーの方々と集まった時に、自分にとってはツマラナイ日常が、他人から見ると面白かったりするのだという話になり、今回初めて日記を書いてみた。書き始めてみると、淡々とした日々の暮らしの中でも少しずつ変化があるものだなと思う。日々の生活というより、音楽のことに偏ってしまったが、ドイツでの「ツマラナイ日常」の様子が少しでもお伝えできていれば嬉しい。
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