私は今年の8月で30歳になるのだが、ここ最近、主人公が30歳を迎えるというあらすじを含んだ作品を鑑賞した。
あらすじを知っていたのではなく、単に評判を聞きつけて知った作品だったが、自分のその時の状況にリンクする作品に出会うことは必然でも偶然でもあるような気がしていて、無意識に惹かれてしまうところがあるのかもしれない。実際に鑑賞してどれも面白かったと同時に、主人公と自分を重ねる部分も多く、盛大に身につまされた。キャリアや周囲の人間関係の悩みに加え、結婚や出産などの「人生の分岐点」が主人公たちを大きく悩ませる。
実際の生活でも、パートナーの有無や出産する・しないの選択がまるで人生において最重要である問題のように扱われている気がする。私も例に漏れず、両親と会うたびに結婚と出産についての質問を浴びせられる。私は単純にお互いの最近の出来事や興味関心について話したいのに、まるで「やっていない宿題を終わらせろ」と急かされているかのように毎回問いかけられ、折角会えてもモヤモヤの方が強く残ってしまう。私は結婚も出産も未経験だが、自分で考えた上で選んでいることなので、今深く悩んだりすることはない。それでも、前述したような自分の周りの世界からの「この先どうするの?」という圧力自体に悩まされ続けている。“30”という数字自体はただの数字でしかないと頭では捉えているものの、まるで若さや自由さの象徴のような20代を終え、“女性としての役割”(滅びてほしい言葉のひとつ)に向き合わなくてはいけないような、そんな応えなくてもいいプレッシャーを感じてしまうこともあり堂々巡りだ。実際、今後出産をしたくなったら悩める時間が限られてくるのは事実だ。それでも、今望んでいないことについて悩むことに意味を見出せない性分だし、今の生活をただ実直に過ごしたい。自分のことは出来る限りしっかり考えた上で決めている。仕事をして手に入れたお金で生活を回している。自分のことだけではなく世の中で起きていることにも関心を持って、自分で出来ることを探している。そうして生きていること、ただそれを認めてほしいと願うことは我儘だろうか。
5年前、以前の職場で働いていた頃、30歳を迎える同僚のお祝いで他の同僚たちと家にお邪魔して盛大に誕生日を祝ったことがあった。今思い出しても楽しい気持ちが蘇ってくるが、私がその時の同僚の年齢になったかと思うと何とも言葉に表し難い気持ちが湧いてくる。この5年の間に起きた、当時は想像もしていなかった出来事の数々が脳裏に過り、しばし黄昏てしまう。あの時のメンバーはみんな今も元気で暮らしているだろうか。連絡しようと思えばできるのだが、こんなご時世ということもあって軽い気持ちで会うこともできないので、どうも手が止まってしまう。
「子供の時想像してた○○歳になった?」という常套句がある。概ね「想像と全然違う」という趣旨の解答がお決まりになっているが、逆に「想像通りだった」という感想を持つ人はいるのだろうか。1週間後や1ヶ月後ですら、自分の想像と違うことなんていくらでも起こり得るだろう。そして、これからやってくるかもしれない想像できないほどの苦しみも幸せも喜んで迎え入れるために、とにかく今自分ができることややりたいことを、将来設計の名の下に無下にしないであげたい。