3回目のワクチン接種をリモートワークの合間に済ませて自宅に戻ると、玄関先にお隣さんらしき女性の姿があった。丁度あちらも子どもを連れて帰宅した所のようだった。私の住まいは木造の賃貸住宅で多少音が響くこともあって、お隣さんは親子三人暮らしらしいということは分かっていた。
お互い「こんにちはー」と挨拶をしたが、お隣さんの子どもが私の駐輪スペースの周りをウロウロしていて私は鈍臭く戸惑っていた。お隣さんはそれに気づいて子どもを自宅玄関に入れようと試行錯誤するのだが、子どもは頑として家の中に入ろうとしない。独特な間が流れる。その間を察してか、お隣さんは私に「子どもが煩くてご迷惑をおかけしますけど、よろしくお願いします」と明るく話しかけてくれた。それに対して、私はうまく返事をしようと頭脳を高速回転させたが理想の言葉が全く思いつかず、またも変な間を作ってしまった。何とか「…全然気にしないでください」と返事をするも、自分の声が思ったよりも小さく発せられてびっくりしてしまった。子どもは依然として家の中に入ろうとしないので、私は「何歳ですか?」と話を振ってみたがスルーされてしまった。声が小さすぎたのか聞き取ってもらえなかったのかもしれない。そしてようやくお隣さんたちが何とか玄関に入っていったので、私も自宅に入ることにした。
自宅で1人になると、激しい自己嫌悪に襲われてしまった。私は昔から咄嗟の状況や会話への対応が苦手で、事あるごとに後悔に苛まれてきた。会話をする時に気をつけているポイントがいくつもあるせいで、失礼ではないかとか、何か気の利いたことを言わなくちゃといったことを強く意識しすぎてしまう。今回もそれほど話したことのないお隣さんを前にどぎまぎしてしまって、スムーズな返答ができなかった。もっと早く返事が出来ればよかった。もっと優しい言葉をかけたかった。そもそも、私があのタイミングで玄関に入ろうとしなければ、お隣さんは無理矢理子どもを家の中に入れなくても良かったかもしれない…そんな後悔が頭の中でぐるぐる回る。お隣さんが言っていた通り、実際に子どもの泣き声や走り回る音が自宅まで響いてきたこともあって、お隣さんの言葉に対して「確かに…」とも思ってしまったことに自分の器の小ささが現れていて、嫌になった。普段から子育てをしている人のSNSをよく見たりしているくせに、咄嗟の場面では自分の意識だけに捉われてしまった。

LizzoというアーティストのTiny desk concertの動画が好きでYouTubeでよく見ている。Tiny desk concertはタイトルの通り机で区切った小さなスペースの中でアーティストが演奏するシリーズで、観客との距離も近い。そんな状況の中でLizzoのセッションのMC中に赤ちゃんがぐずり出す場面があるのだが、それに対するLizzoの瞬時の対応が素晴らしいのだ。英語が堪能ではないのでぼんやりとした解釈だが「赤ちゃんを泣かせちゃった」と言って場を和ませ、赤ちゃんの泣き声を真似した発声でフレーズを歌う。そして「赤ちゃんだってtestimony(証言:言いたいことを言う)がしたいんだ!」と言って大いに場を沸かせる。瞬発的に場の空気を和ませ、赤ちゃんへの賛辞で満たされた空間に変えてしまうLizzoの“陽”のパワーの強さに、動画を見るたびに感情が揺さぶられてしまう。私と言えば、公の場で誰かの子どもが泣いている時は心の中で勝手におろおろして「赤ちゃん元気ですね、気にしないでくださいね」という念を親に対して送ることで精一杯だ。
無礼なことを言いたくない、という信念は持ち続けたいものだけど、どこか自己保身的でもある。「隣人を愛せ」とは聖書の有名な一節で、そう簡単には愛せないよ、とぼやきたくもなるのだけど、今回の一件ではそんなウェルカム精神が欲しいと願わずにはいられなかった。
今回の一曲

Lizzo -NPR Music Tiny Desk Concert




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